★ 漱石と私…… ― 2014年11月12日 10:38
若い頃、徹夜してでも一冊の本を読み切ったものだ。明日を考え、寝なければ、寝なければと思いながらも床の中でうつ伏せになり、枕元の電気スタンドの灯りで読み耽った。で、昨今だが、読書中(読み掛けと言うべきか)の物が多いのだ。「吾輩は猫である」「草枕」「三四郎(新聞連載)」「ひとつ消せ(宇江佐真理)」「シンメトリーな男(竹内久美子)」「頭がよくなる数学パズル(逢沢明)」「童話ってホントは残酷(三浦祐之)」「まさかの結末(E・W・ハイネ)」…… 何ページか読んでは他の本に移る。つまらないからではない。つまらなければ本棚に戻してしまうはずだ。では、何故? 医者に言わせれば、「加齢に伴う集中力、継続力の劣化」かも知れぬ。ま、当たらずとも遠からず。とりあえず必死になることはないのだ。時間はたっぷりある…… なるほど、この時間的余裕(怠惰)が原因なのかもしれない。
ところで、読み掛けの本の中で、どうにも読むのが面倒な本があり困っている。「草枕」である。2度目のはずなのだが、一つのページを読む度に「注釈」を開かなければ意味が通じないのだ。あっちに行ったりこっちに戻ったり。イヤになってしまうのだが、読む。そして、恐れ入る。
同時代の作家の中で、いまだ読まれ続けられている作家は漱石だと言う。評論の中には、彼の「今に固守せず、先を見据えた時代感覚」を指摘するものがある。納得する。それはさて置き、50年にも満たない人生の中で、これほどの「知識」を喰い尽くし、そして、血を吐きながらも書き続けた漱石。何故そこまで…… 理由は判らない。「そうしたかったから」と言ってしまえば、それで終わりだが、そうだったんだろうな~と、なんとなく納得せざるを得ないような気にもなる。
それなりの人に対して、自分の歳を引き合いに出して考えたり比べたりするのは利口ではない。大抵の場合、ま、イイかで終わるに決まっている。または、ま、人それぞれだし、違うんだよな、と自嘲気味に頷かざるを得ないからだ。
10数年前の事である、友人の写真館に顔を出した。スタジオに引っ張り込まれ、写真を撮ってやるという。当時、趣味で物を書き、それを手作り本にして知り合いに贈っていたのだが、彼女がそれらをテーブルの上に置き、座れと言う。断り切れずに撮られたのだが、その時、咄嗟に取ったポーズが漱石であった。今、漱石が再注目を浴びだしたのを機に、二つの写真を並べてみた。咄嗟に取ったポーズにしては、そっくりである。漱石の写真が、頭にこびり付いていたのかもしれない。既に10数年が経ち、我が形相は大きな変化を見せている。さらに「似非」との言葉が頭の中で右往左往している。だが、そんな事は構わない。只の普通の一般人は、偶然にも撮られた写真と好きな作家の写真を見ながら、ただ、ニヤニヤしながら心を癒す。そう、これでイイのだ!(イヤがる私を強引に座らせ、写真を撮ってくれた彼女に感謝!)
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://goeche.asablo.jp/blog/2014/11/12/7489775/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。


コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。